東浩紀のつぶやきをメモ |
2009/11/19 (木) 関連ニュース
佐藤亜紀氏のtwitterを楽しく読んでいたら、
偶然東浩紀を目撃したので、おんたこ的発言をクリップ。
純文学関係者でぼくを敵視するひとが多いですが、ぼくは文芸誌から依頼されて書いている/自分の意見を公表しているだけであり、そもそも文芸誌にも(ジャンルとしての)純文学にもあまり関わりがないし、彼らの利権を侵すつもりはまったくないので、敵意を向けないでほしい。といっても無駄か。
敵視?誰が?間違いを指摘、批判あるいは反論しているだけじゃん。
いいかげんな事や間違いを書いておいて批判されずにすむと思っているところがすごい。
きちんと読んで書評している安藤礼二氏や清水良典氏や川村湊氏は何も言われないのにねー。
純文学系文芸批評の再興は、できるひとがいるならばやったほうがいいと思います。ぼくが言っているのは、(1)ぼくは興味がないからやらない、(2)ぼくは別の市場で批評を作る、ということだけです。どうもその部分がいつもカンチガイされているんだな。
勘違いしているのは東浩紀の方じゃないの?
興味ないのになんで文芸誌の依頼受けるんだろ??断ればいいじゃん。
思想地図とかゼロアカとかが気に食わないなら、別に自分たちでムーブメント起こせばいいのに。
批判されるのが嫌ならムーブメントとやらをおこさなければいいんじゃ?
様々な人の東浩紀への批判を「敵視」「カンチガイ」「気に食わない」とスライド捏造して、被害者ぶっております。まさに匠の技。
しかし、私は別に東浩紀を敵視していないし興味もないのに、なんで出会うかな?
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須礼戸美春は再登場? |
2009/11/15 (日) 関連ニュース
今さらですが、「人の道 御三神」後篇に登場していた須礼戸美春。
『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』 の帯に登場した「図書刊行会お得意様・須礼戸美春」さんですよね。
・笙野頼子ゐき『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』
誰かが指摘するからいっかと思っていたら、もう11月。
誰も押さないままのバスの降車ボタンみたいなことになってしまった。
忘れないうちに書いときます。
あと帯の文章は笙野頼子作だと『ブックデザイン ミルキィ流』にありました。
自分の本に「投石!用意」とか書いちゃうなんて面白すぎる。
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「すばる」12月号に『海底八幡宮』の書評 |
2009/11/11 (水) 書評・紹介情報
「すばる」の表紙画はスタイリッシュだね。
その「すばる」2009年12月号の「プレイヤード」に
安藤礼二さんによる『海底八幡宮』の書評が掲載しています。
どーんと見開き2ページだ。
「すばる」2009年12月号の目次はこちら
http://subaru.shueisha.co.jp/contents/0912.html
『千のプラトー』を解説しつつ、『海底八幡宮』の亜知海を解説。
なぜ千プラがでてくるかというと、以前から笙野さんは千プラを使って小説をかくと明言しており、『海底八幡宮』はその一作目だから。
私は読んだこともないので、千プラ視点からの書評は参考になります。
書評自体がちょっと難しいけど、以下書評を引用しつつ理解してみる。
まず『千のプラトー』用語を解説。
「器官なき身体」=有機体・国家という体制に抗う戦闘機械と化した遊牧民たち
「強度の卵」=多くの差異をそのなかに包含しながら、融合状態にある多様体
そして引用。
器官なき身体は卵である。(略)人はいつも卵を、自分の実験の場として、結合された環境として抱えている。卵は純粋な強度の場であり、内包的空間であって、外延的延長ではない。生産の原理としての強度ゼロである。
『千のプラトー 資本主義と分裂症』ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ
笙野デビュー作「極楽」の地獄絵もまた、「器官なき身体」兼「強度の卵」だと。
一九八〇年から三十年近い歳月をかけて、ドゥルーズ=ガタリの到達した表現の地平を笙野もまた意識的かつ無意識的に受け継ぎ、それをまったく異なった次元へと展開していったのだ。グローバルな哲学表現にローカルな文学表現が接合され、特異な世界文学にして現代日本文学でもある未知なる表現言語が成立した。
安藤礼二さんも「世界文学」だって言っているよ!
その言語によって形作られなければならないのは、国家という「捕獲装置」から開放された「器官なき身体」である。「器官なき身体」が押し潰され、歪められ、その力が簒奪されたところに有機体が、国家が、すなわち「捕獲装置」が出現する。国家に抗う戦闘的な遊牧民のもつ戦闘機械であり、国家の基盤となる魔術的な王がもつ捕獲装置にも変貌してしまう「器官なき身体」をいかに組織し直していったらよいのか。
なるほど、「捕獲装置」は最初は卵だった。
だれだって最初から国家権力の代弁者じゃないということか。
亜知海の潮満珠・潮干珠の話は、「器官なき身体」から「捕獲装置」にさせられる話なのかも。
そして問いの答えは
あらゆるものに異種結合を許す習合的な自我を再発見すること、
さらには歴史をあらためて「書換え」ることにつながるであろう。
その探究の果てに未曾有の光景がひらかれる。
歴史を捏造するのではなく、書き換えること。
シャーロック・ホームズは、かわらぬ事実も見方をかえれば違う推理ができるといっていたし、
嘘をつかなくても、自分用に書き換えることはできると思う。
それが「捕獲装置」にならない方法なのかもしれない。
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驚いたときにコケるか、三歩さがるか |
2009/11/07 (土) ひとこと
吉本新喜劇か!
dozeoff81さん、嘘だから。そんな暗黙の了解ないから。
吉本芸人だってテレビでは倒れるフリをするだけだから!
(簡略化した表現として)
マジレスは無粋だけど、本当に信じて大阪でズッコケられても困るので。
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付箋を貼った意味を忘れない方法 |
2009/10/30 (金) きになるニュース
生協の白石さんにこんな相談がきていた。
最近記憶力が低下し、その分本のあちこちに付箋を貼っているのですが、その付箋を貼った意味が分かんなくなっています。
私もよく忘れる。
どーしたらいいんだろうと困ってたら、カチャマイブックマークでよさげな記事がブクマされていた。
発想コロコロ塾【18】付箋で読書を立体的にする−日経アソシエ
米光一成氏の読書では、半透明付箋で気になるトコに貼りまくるらしい。
それだと何で貼ったかわからなくなる。
そこで貼る「位置」を変えて、一目で意味がわかるようにしている。
記事ではこんなふうに貼り分けしていた。
1)付箋を貼る位置を変える
・重要な場所=飛び出すように貼る
・気になる場所=深く目立たないように貼る
2)貼る場所を変える
・本の下側(地)……例)初めて知った言葉や表現
・本の横側(小口)…例)ページ全体が気になった時
半透明の付箋だから、文字に被ることを気にせずに自由な場所に貼れる。
だから貼る場所で意味を分けられ、カテゴリ分けができるのか。
これで貼った理由を忘れても思い出せそうだ。
さっそく試してみよう。
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『海底八幡宮』書き下ろしメモ |
2009/10/25 (日) 笙野データ・感想
『海底八幡宮』の書き下ろし「捕獲装置とは何か、─恐怖の理不尽力、その無知の欺瞞と零の捏造」にあった「青山真治」「山田茂」のエピソード。
知らなかったので、ちょっと調べてみました。
山田茂さん
- 『群像』2007年8月号に小説「ある言語からの報告」掲載
- 『群像』2007年9月号の創作合評で「ある言語からの報告」が取りあげられる
評者は笙野頼子・伊藤氏貴・中島たい子 - 『文學界』2009年7月号の新人小説月評で
笙野頼子は連帯を嘲笑し内面の牙城を信奉する日本近代文学至上主義者になる
と書く
青山真治さん
- 『群像』2007年9月号に小説「天国を待ちながら」掲載
- 『群像』2007年10月号の創作合評で「天国を待ちながら」が取りあげられる
評者は笙野頼子・伊藤氏貴・中島たい子 - 『すばる』2009年3月号で短編小説「元競馬場」で創作合評らしき場面を「座談会」として描く
どちらも創作合評が関係している?
青山真治さんの方は『海底八幡宮』につづき『人の道御三神』で検証されるようです。
次の河出から出す「人の道御三神」の書き足しに書く予定さ。実はその事を雑誌掲載時に作中で明言してるよね。
『海底八幡宮』p226
おぼえがなかったので見返してみると、「人の道御三神」後篇「え」映画三姉妹の項にありました。
彼は大物文芸評論家笙野頼子の批判をしているのでした(ならばコメントは刊行時の書き足しで)。
「文藝」2009年夏季号 「人の道御三神」後篇p240下段
ここ判らなかったのです。やっとすっきり。
小説「元競馬場」では「大物文芸批評家」が座談会に登場するのです。
ちなみに主役の名前は「零児」。ゼロかっけー!
一度言ってみたかったんだよね。
書き下ろしに登場したラブリー脱構築こだぬきさんは、
森見登美彦『有頂天家族』の「可愛い敵キャラ」になるといいんじゃないかな!
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『海底八幡宮』の感想 |
2009/10/23 (金) 笙野データ・感想
笙野頼子『海底八幡宮』の感想です。
本作は、笙野頼子は権現・金毘羅だったのですシリーズ三作目。
『金毘羅』で自分が金毘羅だと目覚め、 『萌神分魂譜』で自己内他者ヒコと出会う。
本作では自分の中の目上・ボスの心・王の心を発見する。
今までは母に毎日のように電話していたけれど、もういない。
仕事上の「母」もなくなった。
長年つれそった伴侶・飼い猫ドーラも元気がない。
15才をむかえて夏をこせるかわからない。心配で目を離せない状態。
こんな時に限って嫌なえらい人からイタ電かかりまくるし、
訴訟するだなんだ脅してくる評論家もいる。
そんな悩みを亜知海に話す。
亜知海は宇佐八幡宮を作った王だ。
時の王権に追放されてから千五百年ずっと海底から民草を見守り続ける原始八幡の王。
真の王・王の本質そのもの。
亜知海は答える。「世の中の理不尽は税を取るための呪いであると。」
古代も現代も権力のからくりは同じ。
「歴史を繰り返すな。覚醒し越えていけ」
──と、このへんまで理解しました。
だいにっほん三部作で「おんたこ」(反国家と名乗りつつ、やっていることは無自覚に国家@Panzaさん)を描写した。
『海底八幡宮』はそれを「捕獲装置」と名付け、国家権力とは何か、そもそも権力とは何か、
亜知海との対話から権力の正体を描き出した。
権力に本質はない。すっからかん。
オリジナルを本質をくいつくすコピーだ。
と亜知海は喝破する。
そうか。空っぽだから力がないし、力がほしいから本質を奪いにくる。
奪った瞬間は力を得られるが、その瞬間からコピーになって力を失う。
だからまた別の本質を奪うことになる。エンドレス。
私が知りたかったのはこれだ!
このからくりがずっと知りたかったんだと思った。
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ところで出雲大社は本殿?に入れるのは「礼服の人」限定なのです。
ジャゲツ着用で行かれる方がいいかもです。モモチ驚いたときにコケるか、三歩さがるかハハハ。大丈夫ですよ!吉本新喜劇のことだと数十秒して気づきましたから。はじめは「前方に転がり倒れる」という部分だけ読んで、森光子の『放浪記』のことかと誤解したりdozeoffアマテラスとエルサレム賞亀レスですみませんそれは安心しました(何が?)。
笙野頼子どっと読むが更新されていて、さらに安心。
阿満利麿さんは、下記のインタビューによると西本願寺の京都の末寺の出身だそうですモモチアマテラスとエルサレム賞あ、そのレス書いたときは冒頭のあたりくらいまでを読んだ段階でして読み終わってませんでした。
天と海は溝口本の重要キーワードなので、おお、と思ったのです。ウケヒ神kingアマテラスとエルサレム賞kingさん読むの早いですね確かに天と海を対比させていますね。
天といっても152mの低めの山、というのが印象に残っています。
たしかに高い山の頂上だと景色は雲しか見えない。細かいところでリアモモチアマテラスとエルサレム賞海底八幡宮は単行本の時に再読してみようと思います。
まずは最新のものを拾っていこうかと。
人の道は、これ溝口本での、天の神話と海の神話という対比と似た構図がありkingアマテラスとエルサレム賞kingさんにレスするのは初めてですこんにちは、間違いの指摘ありがとうございます。
さっそく修正しました。
素で縞とよんでいました。お恥ずかしい。
>> 「人の道」はこれから読みます。
「人モモチ